Column


OB・OG様や、部員等が、徒然なるままに文章を書き連ねます。
執筆してみよう、というOB・OG様や、部員を募集します。
内容に関しては、部活(軽音楽部)に関することやJazzに関することであれば、何でも結構です。
興味がありましたら、メールをしてください。

 

・前田誠一郎様(第一期生)から見た東京学芸大学軽音楽部の変遷

発足まで…
 私は昭和40年に学芸大学に入学しました。「大学へ行ったらジャズをやろう。」と決めていたのに、入学当時、学芸大の音楽関係のクラブは、合唱、草原(これまた合唱)、音楽科の多いオーケストラ、琴の白菊会くらいでした。ジャズらしいものは見あたりません。「何とか軽音学部を結成したいなー。」その願いから準備にとりかかりましたが、何の手がかりもなく、途方に暮れていました。そんな矢先、11月に学園祭(武蔵野祭?)が開かれ、学生食堂を借り切って、ダンスパーティーが行われました。それが「キーコッコ」と言うバンドでした。
 「キーコッコ」は3年生のK.Y.さんがその仲間とバンドを組んでいたのです。学芸大の音楽科の学生や他校の学生も入ったバンドでした。私はそのキーコッコに3日間?連日、連夜通って、バンド・キーコッコの人たちと仲良くなり、3年生のK.Y.さんには、「私は軽音楽を作りたい」と相談すると「応援するよ。」と答えてくれました。
 残った課題は特に3つ、1つ目は「東京学芸大軽音学部」を創設し、部室を確保すること。2つ目はバンド仲間を集めること。3つ目は楽器を買うこと。でした。
 幸い、私の所属する理科は男子学生が多く、麻雀、パチンコ、酒好きの仲間でしたので、仲間に相談したら「バンドをやろう。」と、二つ返事でOKしてくれました。その中に、ギターの経験者で、お兄さんがキーコッコと親しかったNがいたので、大変心強かったです。一番苦労したのは軽音学部の創設です。学生課に行っても、学生運動をしている執行部でも「関係ない。」と門前払い。そこで学生運動(自治活動)をしている執行部会に何回も足を運んで、会議が終わる寸前に「その他」の部分でしつこく「新しい部の創設」を訴えて、何名か賛成する執行部員を得て、認めてもらえました。同時に顧問を探しました。当時数学科助教授でフランス人形のように可愛らしいS.Y.助教授に顧問をお願いしました。顧問の力もあり、仲間で目に付けておいた空き室を部室としてゲットすることが出来、何とか昭和41年春:東京学芸大学音楽部がスタートしました。

 

  東京学芸大学・軽音学部を創部して、いよいよ第2段階

 部員は集まったものの、音楽は無知なものばかり、当時、楽器は高価で簡単には買うわけにはいかない。かろうじてN.N.がエレキギターとアンプ、私が安いフルート持っていましたが、他は全く持っていないのです。どのように楽器を増やしたかはっきり記憶にないが、ドラムはS.H.が音楽雑誌・スイングジャーナルの中古楽器紹介で購入したような…不確かな記憶があります。もう一人のギターリスト、K.Y.はキーコッコのギターリストWさんから譲り受けたかな?。ベースK.H.の楽器は全く記憶がないが新品では無かったような気がします。スウィングジャズ:クラリネットの名手S.W.は当初はピアニカでステージに上がっていました。スタートした41年4月には1年生でS.N.が入部し、ビブラホーンを担当しました。と言っても、ビブラホーンを買う金はとてもありません。ある音楽雑誌でエレホーンという楽器を目にしました。鉄琴の裏側にマイクセンサーが付いていて、アンプを通し、アンプのビブラートでビブラホーンのような音を出すのです。始めたばかりのガチャガチャしたサウンドのバンドにはそのエレホーンの音がとっても清らかで、ソフトでマッチしていました。女性も何人か入部しました。数学科から2年(同級生)K.N.(ギター)、家庭科のA.S.(ウクレレ)、沼波和子(ウクレレ~スチールギター)、遅ればせながら入った2年理科の:Y(男性:酔っぱらったようなスチールギター)が入部してきましたので、4名はハワイアンバンドを組みました。
 そして、創部6ヶ月にして昭和41年夏、赤城山に初合宿に出かけることになったのです。今のように車もなく、電車と乗り合いバスに楽器を押し込み出かけました。K.H.は合宿の手荷物とコントラバスを持ち、N.N.はギターとアンプ、フルートしかない私はドラムの一部…てな具合ですので、赤城山行きのバスでは、私たちはイライラ、他の乗客も不機嫌、運転手も乗客と喧嘩になったり、大変な思いで、赤城山へ着きました。そのバス停からまた2キロほど楽器と荷物を担ぎ、東京大学の赤城寮へ着きました。そこが我々の合宿場です。最高学年が2年、血の気の多い野郎がほとんど、さてこの合宿はどうなるのでしょうか。
  続く…